20世紀以降の家具デザインは、19世紀のものとは大きく違います。
19世紀までのデザインは、室内インテリア全体の付加的な装飾による美しさを求めたのに対して、20世紀に入ってからのデザインは、機械生産・量産体制を背景とした機能性の追求から生まれるという考え方をもとに、シンプルで軽快、開放的なモダン・デザインが生まれました。
現代までに様々な家具デザインが生み出されましたが、合理主義に基づくアメリカのデザイン、自然な材質を生かし暖かみを感じさせる北欧のデザイン、未来的なイタリアのデザインが出現し、そのデザインが日本の「和」デザインにも多くの影響を与えています。
家具の様々な機能は、快適な生活を送る上で欠かせません。機能の高度化と、感性を刺激する意匠とが結びついた様々なデザインの家具がたくさん生まれています。特に芸術や人間工学の対象ともされる椅子については、数多くのデザイナーが制作しています。
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アルヴァ・アアルト
Alvar Aalto(1898年-1976年)
1898年、フィンランドのクオルタネ生まれ。
1916年から1921年まで、ヘルシンキ工科大学において建築を学びます。
1923年、建築設計事務所を開設。
1928年、北欧においてモダニズム建築が台頭するきっかけになった作品、パイミオのサナトリウムを発表。
第二次世界大戦後は、マサチューセッツ工科大学客員教授を務め、フィンランドのロヴァニエミ復興都市計画に携わりました。
フィンランドが生んだ20世紀を代表する世界的な建築家で。その活動は建築から家具、ガラス食器などの日用品のデザインまでと多岐に渡ります。
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チャールズ・イームズ(チャールズ&レイ・イームズ)
Charles Eames(1907年-1978年)
1907年、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスに生まれます。
1925年からセント・ルイスのワシントン大学建築学科で学びます。
1930年、後にパートナーであり親友となるエーロ・サーリネンとその父、エリエル・サーリネンと
知合います。
1940年、エーロ・サーリネンとともにニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募。成型合板を使った椅子や棚などが6部門中2部門で優賞しました。
1941年、前妻と離婚し、1943年にチャールズ&レイ・イームズ事務所を設立するパートナー、レイと結婚。その後の生涯にわたる活動拠点となるロサンゼルスへ移ります。
その後も積層合板を使った、大量生産に向けた椅子をはじめとする家具など、多くの製品を開発しています。
イームズ邸、プライウッド・チェア、ラウンジチェア&オットマンなど、積層合板やプラスチック、金属といった素材を用いた代表作品を制作し、20世紀を代表するプロダクツデザイナーです。
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ル・コルビュジエ
Le Corbusier(1887年-1965年)
1887年、スイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれます。
1908年、パリにて鉄筋コンクリート建築の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所で働き、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所で働きます。
1911年、ベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方の旅へ。
1914年、鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表します。
1928年に始まった、建築家たちが集まり都市・建築の将来について討論を重ねた国際会議、CIAM(近代建築国際会議)に参加、世界的に新しい建築の理念が確立されます。
1965年、死去。
近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエと共に)のひとりとされています。
スラブ、柱、階段のみが建築の主要要素だとするドミノシステムを考案し、鉄筋コンクリートを使用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性を持ち合わせたモダニズム建築の先駆者として、また都市計画の分野でも活躍しました。
サヴォア邸、マルセイユのユニテ・ダビタシオン、チャンディーガル都市計画、ロンシャンの礼拝堂、東京国立西洋美術館(基本設計)、ラ・トゥーレット修道院など多数の代表作があります。
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ミース・ファン・デル・ローエ
Ludwig Mies van der Rohe(1886年-1969年)
1886年ドイツのアーヘン生まれ。1930年からバウハウスの代三代校長を勤めたモダニズムを代表するドイツの建築家です。
近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ヴァルター・グロピウスと共に)のひとりとされています。
1927年、ドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展に参加、ル・コルビュジエやヴァルター・グロピウスらとともに実験的な集合住宅を建設。
1929年にバルセロナ万国博覧会ドイツ館、鉄とガラスで構成され、大理石の壁を配し、モダニズムの空間を実現したバルセロナ・パヴィリオンを設計。
1933年のナチスによるバウハウス閉鎖後アメリカに亡命。戦後は高層ビル、美術館、別荘などの設計に携わっています。
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アルネ・ヤコブセン
Arne Jacobsen(1902年-1971年)
1902年、デンマーク、コペンハーゲンで生まれる。
1927年デンマーク王立芸術学校卒。1930年までの3年間ポール・ホルソーの建築事務所で働き、20世紀モダニズムを代表する建築家、ル・コルビジェ、ルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエらの影響を受けます。
1950年代には、20世紀の後半50年を通じて世界で最も売れたデザイン名作家具の一つ、使い手を第一に考えたアント(蟻)、エッグ(卵)、スワン(白鳥)の椅子を発表します。
1956年に竣工したデンマーク国内初の高層ビルであるラディソンSASロイヤルホテルでは、建物の設計からインテリアデザイン、照明やドアノブ、食器類などの細部までを一貫して手掛けています。
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ヘリット・トーマス・リートフェルト
Gerrit Thomas Rietveld(1888年-1964年)
1888年オランダのユトレヒトに生まれる。
1911年に自分の家具工場をはじめます。1918年、モンドリアンらとともに芸術運動デ・ステイルに参加。
椅子の名作「レッド&ブルー」や「ジグザグチェア」、世界文化遺産に登録された「シュローダー邸」
で知られています。
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エーロ・サーリネン
Eero Saarinen(1910年-1961年)
1910年、建築家エリエル・サーリネンの息子としてヘルシンキに生まれます。
1923年アメリカに移住、ミシガン州のクランブルック美術大学で教える父エリエルの講座に学び、その後イェール大学で建築学の学位を取得し卒業。
1948年、ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの主要部となる記念碑のデザインコンペで優勝、一躍注目を浴びる。
チューリップチェアに代表される、その曲線を用いた未来的なデザインや、ジョン・F・ケネディ国際空港のTWAターミナルビル、ダレス国際空港ターミナルなどの有名な作品があります。
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フランク・ロイド・ライト
Frank Lloyd Wright(1867年6月8日-1959年4月9日)
1867年、アメリカ、ウィスコンシン州に生まれます。
近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエと共に)のひとりとされています。
1893年に、建築家としてシカゴで独立します。
「デザインとは、自然の要素を純粋に幾何学的な表現手段によって抽象することである」という言葉からもわかるように、一貫して自然と建築の共存を提唱し、有機的建築を数多く残しました。
1913年、帝国ホテル新館設計のために訪日。以後もたびたび訪日し設計に参加します。
ニューヨークのグッゲンハイム美術館や、ペンシルバニア州のカウフマン邸などが有名ですが、生涯に800以上の設計をし、半分以上を形にしたライトは建物や住居だけでなく、家具やテキスタイル、照明、景観までをデザインしました。
全体として統一した創造姿勢はデザインの領域を押し広げ、20世紀の建築と装飾芸術の発展に深遠な影響を与えました。
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マルセル・ブロイヤー
Marcel Lajos Breuer(1902年-1981年)
1905年ハンガリーで生まれます。
モジュール構造と単一形態の重要性を提示したモダニズムの建築家です。
1920年代、バウハウスで学び、後に教官となります。
1925年、バウハウスを代表する作品、世界初のスチールパイプを使用したイス、ワシリーチェアを制作。
1930年代、ナチスの台頭によりロンドンへ、その後アメリカへ移住。
戦後、ニューヨーク近代美術館デモンストレーション・ハウス、パリのユネスコ本部などを設計。
芸術とテクノロジーの融合した工業製品、家具同様に工業部材を用いた、明快な理論を持つモダニズム建築から、晩年の曲線美や彫刻的な表現を特徴とするブルータリズムの先駆としてデザイン・建築分野に数々の名作を残しました。
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ハンス・ヨルゲンセン・ウェグナー
Hans Jørgensen Wegner(1914年-2007年)
1914年、南ユトランド生まれ。
23歳の時コペンハーゲン美術工芸学校に入学。家具設計を専攻。
1940年から1943年にかけて、アルネ・ヤコブセンの事務所に勤務、その後独立。
中国の明の時代に作られた椅子を改良して生みだした代表作、「チャイニーズ・チェア」を1943年にデザインします。
その後、世界で最も売れたイスのひとつ「Yチェア」など、様々なチェアをデザインしています。
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チャールズ・レニー・マッキントッシュ
Charles Rennie Mackintosh(1868年-1928年)
1868年、スコットランド、グラスゴー生まれ。
16歳のときに、ジョン・ハッチソンという建築家の元に見習いに出て、1889年までそこで過ごした後、ハニーマン&ケッピー設計事務所で製図係りとして働く傍ら、グラスゴー美術学校の夜間部でデザインとアートを学ぶ。
27歳の若さで、母校でもあるグラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝。
グラスゴーのティー・ルーム(Willow Tea Room)のインテリアデザイン、ヒルハウスの設計などを残しました。
アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者です。
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アイリーン・グレイ
Eileen Gray(1878年-1976年)
1878年アイルランド生まれ。
日本の工芸家から学んだ漆の枝術を活かして、アール・デコの作風の工芸品、家具、インテリアアクセサリーを制作・発表しています。
1937年パリ博覧会でル・コルビュジェ等の励ましと影響を受け建築の世界に傾倒し。
1972年に英国王立芸術家協会より王立産業デザイナーに任命、RDIの称号を授与、またアイルランド王立建築協会からも賞を受けています。
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イサム・ノグチ
Isamu Noguchi(1904年-1988年)
1904年ロサンゼルス生まれ。
コロンビア大学に入学し、医師を志すかたわらレオナルド・ダ・ビンチ美術学校で彫刻を学びます。
その後、パリへ渡り留学生活を送る。その後、北京、日本と渡る。
1947年にハーマンミラーのデザインディレクターであったジョージ・ネルソンに請われ「ノグチ・コーヒーテーブル」を発表します。
世界を代表する偉大な日系アメリカ人彫刻家です。
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ジオ・ポンティ
Gio Ponti(1891年-1979年)
1891年ミラノ生まれ。
ミラノ工科大学卒業後、1923年から1930年まで陶磁器メーカーのリチャード・ジノリ社に勤務しています。
1928年に、著名なイタリアの建築デザイン雑誌「Domus」を創刊。1936年から1961年までミラノ工科大学で教鞭を執っています。
代表作は、家具では超軽量な椅子スーパーレッジェーラ、建築ではミラノのピレリ・ビルなど。
戦後のイタリアデザイン界を代表する、「イタリア建築デザイン界の父」と称される偉大なデザイナーです。
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テレンス・コンラン
Terence Conran(1931年-)
1931年イギリス、サリーのイーシャー生まれ。
ロンドンのデザインの名門セントラル・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインでテキスタイルを学びます。
1952年にフリーのデザイナーとなり、1956年にはコンラン・デザイン・グループを設立して「Summa」 ブランドの家具の製作を開始。
1990年代に日本やアメリカに「ザ・コンランショップ」やレストランを次々にオープンさせています。現在では世界四都市に30店以上のレストランやカフェを展開する、世界中に数多くのファンをもつ家具デザイナーとして活躍しています。
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トーマス・チッペンデール
Thomas Chippendale(1718年-1779年)
イングランド北西部ヨーク地方出身。
イギリスの家具デザイナーで、ロココ家具メーカー創始者。
世界最初の家具デザイナーと言われています。流れるような美しい曲線はチッペンデール・スタイルと呼ばれ、近代に続く家具デザインの源流となっています。
アンティークファンにはたまらなく魅力のある家具をデザインしています。
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ミヒャエル・トーネット
Michael Thonet(1796年-1871年)
曲木技術の発明者であり、家具メーカー、トーネット社の創業者です。
1836年、木を蒸して柔らかくしてから曲げる曲木の技法を発明し、これを工場で大量生産します。
ロッキングチェアが有名で、ル・コルビュジェやピカソなどの著名人が愛用しています。
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ジャン・プルーヴェ
Jean ProuvE(1901年-1984年)
1901年、フランス、パリに生まれます。
父、ヴィクトール・プルーヴェがナンシー派の工芸家であったため、アール・ヌーヴォーの一大拠点であったナンシーの地で多くの工芸品に囲まれて育ちます。
1931年、自身のアトリエを設立。家具やドア、建築を手掛け、1937年のパリ万博には、ル・コルビュジェやピエール・ジャンヌレと共同製作したバスルームを出品しました。
構造から建築の工業生産(プレハブシステム)など様々なエンジニアとしても活躍し、デザインから技術までにすべて長けており、スチールパネルによる可動間仕切りにおいては特許を取得、アルミを建築材料として採用した先駆として、レンゾ・ピアノ、ノーマン・フォスター、ジャン・ヌーヴェルら、ハイテク建築とよばれる作品を多く世に送り出している現代建築家たちに影響を与え、建築生産の工業化に大きな役割を果たしました。
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フィリップ・スタルク
Philippe Starck(1949年-)
1949年、パリ生まれ。
パリ装飾美術学校で学びその後、ピエール・カルダンのスタジオでアートディレクターを務めます。
1980年にデザイン事務所、スタルク・プロダクツを設立。
1982年、当時のフランス大統領フランソワ・ミッテランの目にとまり、エリゼ宮にフランス大統領専用室を設計。
その後多くのレストラン、カフェからホテルの内装を手掛け、インテリアから工業デザイン、さらに建築までもデザインし、独創的なスタイル表現で世界のトップデザイナーとして君臨しています。
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ジョージ・ネルソン
George Nelson(1908年-1986年)
1908年、コネチカット州ハートフォード生まれ。
31年にイエール大学で建築の学位を取り、さらにローマのアメリカンアカデミーで学んだ後、ニューヨークでウイリアム・ハンビーと建築事務所を設立します。
1946年から1966年までの20年間、ハーマンミラー社のデザイン部長として、イームズ夫妻の才能をモダン家具に実現させました。
自身も、マシュマロソファ、ココナッツチェアなどの名作と、高いアート性を有するネルソンクロックシリーズで、21世紀の家具デザイナーとして大きな足跡を残しています。
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ヨーゼフ・ホフマン
Josef Hoffmann(1870年-1956年)
1870年、チェコのピルニッツ生まれ。
ブリュンの国立工芸学校卒業後、ヴュルツブルクの軍事施設建設局に勤めた後、ウィーン美術学校に進学しオットー・ヴァーグナーの下で学びます。
1897年、ウィーン分離派へ参加。1903年コロマン・モーザーとともにウィーン工房を設立。
ウィーン工房は32年に経営難のため解散。晩年はイタリア、ヴェニス国際ビエンナーレのオーストリア代表や芸術審議会の委員など公的な役職を数多く歴任しました。
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ロン・アラッド
Ron Arad(1951年-)
1951年、イスラエル生まれ。
エルサレムのアートアカデミーで学んだ後、ロンドン建築協会を経て、1989年、自身のスタジオを設立。
ミラノ国際家具見本市において、1998年の真空アルミニウム成形の椅子「Tom Vac」、1999年の座から背が1枚のアクリル板で作られた「F.P.E.(Fantastic Plastic Elastic)チェア」など発表。彫刻的なデザインとともに、実用性に富んだ家具を発表しています。
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アレッサンドロ・メンディーニ
Alessandro Mendini(1931年-)
1931年、イタリア・ミラノ生まれ。
ミラノ工科大学で建築を学び、1980-1985年にはイタリアの建築&デザイン雑誌「ドムス」の編集長を務めます。
1994年、ALESSIの有名なワインオープナー 「アンナG」をデザイン。
現在はアレッシィ社のイメージ・ディレクターとして、アレッシィ社屋、アルベルト・アレッシィ氏宅、そして全世界のアレッシィ ショップの内装も手掛けています。
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アッキーレ・カスティリオーニ
Achille Castiglioni(1918年-2002年)
1918年イタリア、ミラノ生まれ。
ミラノ工科大学の建築学科を卒業後、1944年から兄のピエール・ジャコモとともに建築家・デザイナーとしてスタートしました。
1962年のフロス社創設にデザイン部門責任者として兄弟で参加。1960年代のイタリア照明界の代表デザイナーとなります。
イタリアデザインのマエストロ、革新的工業デザインのパイオニアなど、世界的に高い評価を得ているデザイナーです。
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マイケル・グレイヴス
Michael Graves(1934年-)
1934年インディアナポリス生まれ。
1964年から建築家として活躍。1962年からプリンストン大学で建築学の教鞭を執る。
様々なオフィス、美術館、官庁などのポストモダン建築を100作品以上、1960年代後半から世界中で手がけており、一連の家具デザインで人気を博しているほか、プロダクトデザインもアレッシィを中心に精力的にてがけています
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ロス・ラブグローブ
Ross Lovegrove(1958年-)
1958年、ウェールズのカーディフ生まれ。
1980年、マンチェスター工科大学、1983年、ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブアートを卒業。
80年代初期はドイツのフロッグ・デザインにデザイナーとして所属し、ソニーのウォークマン、アップルコンピュータなどプロジェクトに関わっています。
英国を代表するプロダクト・デザイナーとして、世界的に高い評価を得ています。
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エンツォ・マリ
Enzo Mari(1932年-)
1932年、イタリア、ノヴァーラ生まれ。
ミラノのブレラ美術アカデミーを卒業後、(ダネーゼ社でプロダクトデザインを手掛けています。
視覚心理学を研究し、3次元知覚と工業デザインを融合し、独自の世界を構築。妻のイエラ・マリとともに知育絵本などの出版やグラフィックデザインも手がけています。
イタリアモダンデザインを代表する巨匠です
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エットレ・ソットサス
Ettore Sottsass(1917年-2007年)
1917年オーストリア・インスブルック生まれ。
トリノ工科大学建築学科卒業後、自身のスタジオを開設します。
1958年、オリベッティ社のインダストリアルデザインの主任顧問に就任し、デザインを手掛け名声を得ます。
1980年、マルコ・ザニーニらと、ソットサス・アソシエイツを設立。翌81年、世界から集まった30歳代の若手デザイナー・建築家らとメンフィスを結成。
20世紀後半を通して、常にデザイン界をリードしてきたデザイナーです。
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内田繁
(1943年-)
1943年、横浜生まれ。
桑沢デザイン研究所所長を務め、世界各国での講演、国際コンペティションの審査、世界のデザイナーの参加するデザイン企画のディレクションなどに参加し、日本を代表するデザイナーとして国際的評価を受けています。
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柳宗理
(1915年-)
1915年、東京生まれ。
1940年、東京美術学校洋画科卒業。その後坂倉準三事務所を経て、1952年柳デザイン研究会を設立。
1954年発表のバタフライ・スツールが有名です。東京オリンピックの聖火リレーのトーチ・ホルダーや競技場の座席をなどをデザインするなど、家具だけではなく、自動車や高速道路、橋など幅広くデザインを手掛けています。
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倉俣史朗
(1934年-)
1934年、東京生まれ。
1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。
1965年にクラマタデザイン事務所設立。
1981年、エットレ・ソットサスの誘いで革命的デザイン運動「メンフィス」に参加。
インテリアデザイナーとして商業空間、家具・照明など、創造的なデザインで注目されたデザイナーです。
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深澤直人
(1956年-)
1956年、甲府生まれ。
1980年、多摩美術大学プロダクトデザイン科卒業。
2003年、Naoto Fukasawa Design設立。
60を越える世界各国のデザイン賞を受賞し、多くの企業から革新的なプロダクトを発表しています。現代日本を代表するデザイナーのひとりです。
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第一次世界大戦中の1917年、オランダのライデンで建築家・画家のテオ・ファン・
ドースブルフによって創刊した雑誌とそれに賛同する芸術家グループです。
水平線・垂直線・直角・正方形・長方形・三原色・非装飾性が特徴の新造形主義を当初
理念とし、後に対角線を導入した要素主義を展開し、後のバウハウスにも大きな影響を
与えました。
世界遺産にも登録されているシュレーダー邸を設計し、椅子のデザインでも有名な
ヘリット・トーマス・リートフェルトや、アムステルダムで都市プロジェクトに関わる
コーネリアス・ファン・エーステレン、戦後オランダの数々のビルディング建築を設計
したヤコブス・ヨハネス・ピーテル・アウト、世界で初めての映画専門の建築理論を
構築した劇場建築家、フレデリック・キースラーなどが参加しています。
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ヘリット・トーマス・リートフェルト
Gerrit Thomas Rietveld(1888年-1964年)
1888年オランダのユトレヒトに生まれる。
1911年に自分の家具工場をはじめます。1918年、モンドリアンらとともに芸術運動デ・ステイルに参加。
椅子の名作「レッド&ブルー」や「ジグザグチェア」、世界文化遺産に登録された「シュローダー邸」
で知られています。
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テオ・ファン・ドースブルフ
Theo van Doesburg(1883年-1931年)
1883年、オランダ、ユトレヒト生まれ。
1917年、オランダ・ライデンにて、ピエト・モンドリアン、バート・ファン・デル・レックらとともにデ・ステイルを結成。
1920年代、バウハウス、ロシア構成主義やダダイストなどと幅広く交流。
主張する要素主義による、垂直や、斜線を使った絵画や、それを表現した建築、家具などを発表しています。
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ピエト・モンドリアン
Piet Mondrian(1872年-1944年)
1872年オランダで生まれます。ワシリー・カンディンスキーと並び、本格的な
抽象絵画を描いた先駆者とされています。
1912年、パリへ。キュビズムの影響を受ける。そして、さらに進化し、
抽象的な造形に変化。
1914年、オランダへ一時帰国、垂直線と平行線による画面構成が始まります。・
1921年、代表作である、水平・垂直の直線と三原色から成る「コンポジ
ション」の作風が確立。
1925年、「新造形主義」をバウハウス叢書として出版。急進的な抽象展開
のため、芸術雑誌「デ・ステイル」を離脱。
大戦のため1938年よりロンドン、そしてニューヨークへ移住。
1944年、ニューヨークにて没。
具象から、キュビズムを突き抜け、色彩と形態のみでの純粋な造形という
未開の表現方法を切り開き、その造形言語は後世多大な影響を与えました。
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ヤコブス・ヨハネス・ピーテル・アウト
Jacobus Johannes Pieter Oud(1890年-1963年)
1890年、オランダ、プルメレント生まれ。
1910年代後半から1930年代にロッテルダムで多くの住宅建築プロジェクトに携わります。
モダニズムの建築家として知られ、機能性と居住性を追求する住宅建築を数多く設計しました。
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コーネリアス・ファン・エーステレン
Cornelius van Eesteren(1897年-1988年)
テオ・ファン・ドゥースブルフとともにデ・ステイルを主導。
1929年から1960年までの長きに渡ってオランダ・アムステルダム市で都市計画で活躍したオランダを代表する都市計画家です。
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フレデリック・キースラー
Frederick Kiesler(1890年-1965年)
1890年、ウィーン生まれ。
1920年代から、ウィーン、ベルリンで劇場と芸術展示デザイナーとして活躍し、劇場建築などを主に手がけ、世界で初めて映画専門の建築理論を構築した建築家です。
デ・ステイルには1923年に参加しています。
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ヤン・ヴィルス
Jan Wils(1891年-1972年)
テオ・ファン・ドゥースブルフとともにデ・ステイル創立メンバーのひとりです。
1928年アムステルダム・オリンピックのスタジアムを設計したことで有名な建築家です。。
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ジュルジュ・ファントンゲルロー
Georges Vantongerloo(1886年-1965年)
1886年、ベルギー・アントワープ生まれ。
1905年から1909年まで、アントワープとブリュッセルの美術アカデミーで学び、1917年にテオ・ファン・ドゥースブルフとともにデ・ステイルを創設します。
1931年、パリで「アプストラクシオン=クレアシオン(抽象=創造)」を設立し、抽象的な絵画や彫刻を数多く制作しました。
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バート・ファン・デル・レック
Bart van der Leck(1876年-1958年)
1876年、ユトレヒト生まれ。
ユトレヒトのガラス工房で学び、建築家クラール・ハーマーに師事。
1917年にテオ・ファン・ドゥースブルフとともにデ・ステイルを創設します。
1920年デ・スティルを去り、テキスタイル、陶芸、家具のデザインで活躍しました。
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フィルモス・フサール
Vilmos Huszár(1884年-1960年)
1884年、ハンガリー、ブダペスト生まれ。
1905年オランダに移住し、1917年にテオ・ファン・ドゥースブルフとともにデ・ステイルを創設します。
キュビスムと未来主義に影響された絵画、グラフィック、室内装飾、パッケージデザインなどを手掛けています。
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1919年、ドイツのワイマール市に開校された、工芸・写真・デザイン・建築
に関する総合教育を行った造形芸術学校です。
ナチスにより閉鎖される1933年までの14年間存在。後世の美術芸術・美術
思想・美術教育等に多大な影響を与えました。
初代校長で建築家のヴァルター・グロピウスは、「生活機能の総合場である
建築のもと、彫刻・絵画・工芸などの諸芸術と職人的手工作など一切の造形
活動を結集して、芸術と技術の再統一を図る」という教育理念のもと、新しい
教育システムを実施しました。
画家のカンディンスキーやパウル・クレー、ヨハネス・イッテン、モホリ=
ナジ・ラースロー、舞台芸術家のオスカーシュレンマーなどを教授に迎えました。
デザイン運動のひとつの頂点を形作ったものとして高く評価されていて、
グラフィック・デザインおよび家具デザインの分野にその成果が認められます。
1926年には、グロピウス自身が設計したデッサウの校舎に移転。近代工業が
発展しつつある当時において、その生産形式・生活様式に応じた芸術のあり方
を示しました。
その後、校長はハンネス・マイヤーを経てミース・ファン・デル・ローエに
代わりますが、33年にはナチスの圧力でその幕を閉じてしまいます。その後
もその理念はシカゴの「ニュー・バウハウス」における運動とドイツのウルム
造形大学におけるデザイン運動へと継承されていきました。
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リオネル・ファイニンガー
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建築の専門書の買取について
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19世紀後半イギリスの思想家、デザイナーのウィリアム・モリスが主導した
デザイン運動です。
産業革命後の大量生産による安価な粗悪品の流通に際して中世の手仕
事に帰り、生活と芸術を統合することを主張したました。
後のアール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなどの
美術運動に多大な影響を与えました。
モリスとともに「赤い家」を設計したフィリップ・ウェッブや、アメリカン・
アーツ・アンド・クラフツのチャールズ・グリーンとヘンリー・マザー・グリー
ン兄弟によるGreene & Greeneなどが活躍してます。
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英国の建築家・デザイナーのチャールズ・レニー・マッキントッシュほか3人を
中心に、19世紀末グラスゴーに集まった建築家・デザイナーのグループです。
幻想的な曲線装飾は当初批判の対象でしたが、1冊の美術雑誌の肯定的な
内容により、後にウィーンの美術家・工芸家によって結成されたウィーン分離
派の運動に多大な影響を与えました。
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19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に花開いた、ジャポニズ
ムとの関係も深い、花や植物、昆虫や鳥、長い髪や女性の身体などのモチー
フを従来の様式に囚われない曲線や曲面による装飾方法や、鉄やガラスとい
った素材が特徴の国際的な美術運動です。
狭義には、ベル・エポック期のフランスの装飾美術を示し、広義にはアーツ・
アンド・クラフツ以降の世紀末美術までの各国の美術傾向を示します。
アール・ヌーヴォー初期の建築家として、ベルギーのヴィクトール・オルタや、
「地下鉄駅入口」を設計したフランスの建築家エクトール・ギマールが活躍し
ました。
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19世紀後半のドイツで花開いた、ドイツ版アール・ヌーヴォーです。
1896年、ミュンヘンで創刊された、斬新なイラストレーションが評判で
あった雑誌「ユーゲント」から名付けられました。
動植物や女性をモチーフとし、柔らかい曲線美や、やや非左右対象な幾何
学的な模様を使用する傾向があり、ジャポニスムやアーツ・アンド・クラフツ
から強い影響を受けています。
ベルギー生まれのユーゲント・シュティールに大きな影響を与えた建築家、
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデや、後にナチスから退廃芸術家の烙印を押さ
れたアウグスト・エンデル、そして当初ヴァン・デ・ヴェルデから影響を受け、
後にモダンデザインを開拓し、グロピウス、コルビュジエ、ミースなどの思
想に影響を与えた建築家、ペーター・ベーレンスがいます。
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19世紀の後半、スペインのカタルーニャ地方・バルセロナを中心に花開いた
スペイン版アール・ヌーヴォーです。
アール・ヌーヴォーのスタイルを踏襲しつつも、文化・歴史的に影響があった
南フランスやイスラム建築を取り入れた独自のスタイルが特徴です。
自由な曲線や曲面を多用し、タイル・陶磁器・金属などで装飾する独自の建
築を創造したアントニ・ガウディや、ヒスパノ=アラブ様式の装飾と湾曲した
ラインとを組み合わせた合理的な建築を創造した建築家リュイス・ドメネク・
イ・ムンタネーなどが活躍しました。
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1897年、ウィーンにて画家のグスタフ・クリムトを中心に結成された、
アーツ・アンド・クラフツ、アール・ヌーヴォーの影響を受けた造形表現を
主張する芸術家のグループです。
機能主義理論の旗手として近代建築の父と呼ばれる建築家オットー・ワー
グナー、ワーグナーの理念を受け継いだヨゼフ・マリア・オルブリッヒ、
後に直線や正方形などの単純な幾何学形態を生み出した、ヨーゼフ・
ホフマンなどの建築家が参加しています。
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第一次世界大戦中の1917年、オランダのライデンで建築家・画家のテオ・
ファン・ドースブルフによって創刊した雑誌とそれに賛同する芸術家グルー
プです。水平線・垂直線・直角・正方形・長方形・三原色・非装飾性が特徴
の新造形主義を当初理念とし、後に対角線を導入した要素主義を展開し、
後のバウハウスにも大きな影響を与えました。
世界遺産にも登録されているシュレーダー邸を設計し、椅子のデザインで
も有名なヘリット・トーマス・リートフェルトや、アムステルダムで都市プロジ
ェクトに関わるコーネリアス・ファン・エーステレン、戦後オランダの数々の
ビルディング建築を設計したヤコブス・ヨハネス・ピーテル・アウト、世界で
初めての映画専門の建築理論を構築した劇場建築家、フレデリック・キー
スラーなどが参加しています。
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1910年代半ばから1930年代にかけて、ヨーロッパおよびアメリカ・
ニューヨークで開花した芸術運動です。
各種の工業製品、近代都市生活の発展によって、大量生産とデザインの
調和が求められ、幾何学図形をモチーフにした記号的表現などの多種多
様の装飾が生まれました。
クライスラービル・エンパイアステートビル・ロックフェラーセンター
などのニューヨークの高層建築がアール・デコ建築として有名です。
1930年代から70年代までフランスで活躍した、アイルランド生まれの
女性建築家、アイリーン・グレイが1930年代にアール・デコの建築家と
して活躍しています。
またアメリカ近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトのデザインもアール・
デコの流れに含まれる場合があります。
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市民革命と産業革命以降の社会において、機能性や合理性を重視し、産業
の発展による鉄骨や鉄筋コンクリート、ガラスの使用による、時代・現実に合
った建築が求められました。
モダニズム建築の起源は、アーツ・アンド・クラフツ運動とされ、芸術学校
バウハウスの開設により、モダニズム建築の急速な展開推進したと言わ
れています。
1928年に始まった、建築家たちが集まり都市・建築の将来について討論を重
ねた国際会議、CIAM(近代建築国際会議)によりモダニズム建築は大きく展
開していきます。
ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ
ら建築家たちの参加により、新しい建築の理念が確立されました。
これらの傾向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が
世界に広がって行くこととなりました。
個人や地域などの特殊性を越え、世界共通の建築様式へと向かうインター
ナショナル・スタイルが提言されることとなります。
現在では、機能主義建築、合理主義建築、インターナショナル・スタイルとし
て主張されてきたこれらの建築を合わせて、モダニズム建築と称されることが
多いです。
上記のヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ
らモダニズム建築の巨匠建築家、20世紀初頭に鉄筋コンクリート造という新
しい技術の建築を生み出したオーギュスト・ペレ、1910年にモダニズム建築の
先駆的な作品を設計したアドルフ・ロース、基本的にモダニズムの流れをくむ
フランク・ロイド・ライト、アメリカのモダニズムを代表する建築家フィリップ・
ジョンソン、首都ブラジリア設計の建築家オスカー・ニーマイヤーなどが活
躍し、近代から現代の重要な建築を多数構成しています。
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1970年代以降の科学的、技術的発展により、ハイテクによって生み出され
た製品、技術を建築物の意匠として取り込んだ建築様式です。
モダニズムの終焉とポストモダニズムの誕生との間に位置づけられますが、
そのテーマやアイディアはポストモダン建築の中に吸収されています。
ハイテク建築の特徴は、ガラスのカーテンウォールと鉄骨構造の使用、建
築物の技術的、機能的な要素を目立つ形で見せること、規則正しい配列、
プレファブ部材の使用などの科学技術的な要素の強調と、機能的な要素を
失わないようにしています。パリのポンピドゥー・センターや香港上海銀行・
香港本店ビルなどがハイテク建築として有名です。
ノーマン・フォスター、レンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャース、マイケル・
ホプキンス、ニコラス・グリムショーなどのハイテク建築の建築家とされ
ています。
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1980年代、機能的・合理性を追求し過ぎ、都市や建築が味気無くなってしま
ったモダニズム建築において、その批判から、かつては否定された装飾や象
徴性の回復などが唱えられた建築様式です。
1990年代のミニマリズムの台頭により、また過剰性・奇異性、景気の後退に
よる建設費の削減により、できるだけ素材の質を活かした簡素なデザインが
増えることとなりました。ニューヨークのAT&Tビルの屋上付近に古代ギリシ
アの神殿建築様式を表したフィリップ・ジョンソン、禁欲的に装飾を否定する
モダニズム建築を批判しポストモダンを提唱したロバート・ヴェンチューリ、ス
イスの現代建築家ベルナール・チュミ、アメリカのポストモダン建築を代表する
建築家マイケル・グレイヴス、日本を代表する建築家、磯崎新などがポストモ
ダン建築家とされています。
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1980年代、思想的なドローイングによる、建つことのない建築のイメージを
描いた建築家たちによるムーヴメントです。
1990年代以降は、1988年にニューヨーク近代美術館で開催された「脱構築
主義者の建築展」によって、またコンピューターによる建築設計ソフトの発達
により、各国で実際の建築を設計するようになっています。
破片のような形状、建築の要素に歪みや混乱を起こしたり、非線形な手法を
用いて設計された建築は、幾何学的でアンバランスな非対象的形態や刺激
的な外観が特徴です。
ピーター・アイゼンマン、フランク・ゲーリー、ザハ・ハディッド、レム・
コールハース、ダニエル・リベスキンド、ベルナール・チュミらが
脱構築主義の建築家とされています。
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1960年代のアメリカで登場した、最小限)主義から誕生し、必要最小限を目
指す手法・創作理論です。
無駄を排し、表現における贅肉をそぎ落とし、極限的な美を追求するミニマリ
ズム建築は1990年代後半からムーブメントが始まっていますが、その様式は
多様でミニマリストひとりひとりの違った解釈が存在しています。
ヘルツォーグ&ド・ムーロン、ギゴン&ゴヤー、ピーター・ズントー、安藤忠雄、
妹島和世+西沢立衛がミニマリズム建築を設計しています。
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建築の専門書の買取について
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縄文時代の三内丸山遺跡、弥生時代の吉野ヶ里遺跡などが有名。竪穴住居、平地住居、高床式倉庫など大規模で高度な建築技術を持っていたことが伺えます。
ネズミなどの害を防ぎ、風通しをよくするために床が高く造られた食糧倉庫として、日本では縄文中期から弥生時代の遺跡から建築部材が出土しています。
神社建築様式の1つである神明造は、この高床式倉庫から発展したとされています。
朝鮮半島や中国から建築技術を取り入れ、日本でも寺院建築が建てられるようになり、現存するものとしては、法隆寺の西院伽藍、法起寺三重塔が最古のものとして残っています。
また起源は弥生時代の高床式倉庫から発展したといわれる神社建築様式の、大社造、神明造、住吉造、八幡造が古代よりこの時代から存在したと言われ、現在にその形が受け継がれています。
代表的な建築物は、飛鳥様式-法隆寺・法起寺・法輪寺、白鳳様式-薬師寺東塔、奈良時代-東大寺法華堂・正倉院正倉・唐招提寺金堂・法隆寺夢殿、大社造-出雲大社、神明造-伊勢神宮、住吉造-住吉神社、八幡造-宇佐神宮などがあげられます。
礼拝用の建物である拝殿と、神霊を宿した神体を安置する本殿にて構成されています。
本殿の起源は、高床式倉庫から発展したとされています。また過去の技法と様式を復古的に採用し再建されているので、古代からの形を遺しているものと言われています。
伊勢神宮、出雲大社、宇佐神宮などの神明造、大社造、八幡造などの様式があります。
また現在に至るまでに、神仏習合による仏教建築の影響を受け、多様な様式が誕生しています。
建築様式が日本独自の形態として発展する時代です。仏教伝来とともに輸入された中国建築を日本化したもので和様と呼ばれます。
数々の密教が伝わり密教建築が広がり、浄土教建築として平等院鳳凰堂や中尊寺金堂が有名です。また平安後期の代表的な寺社建築に厳島神社があげられます。他には室生寺五重塔、醍醐寺五重塔も平安時代の代表的な建築です。
住宅としては、平城京から平安京へ遷都が行われ、大規模な邸宅、貴族たちの住居、寝殿造が生まれ、その原型を京都御所、紫宸殿・清涼殿に見ることができます。
鎌倉時代に中国から伝わった建築様式(大仏様、禅宗様)に対して、それまでに日本で寺院建築に用いられてきた様式のことです。
平安時代の国風文化の時代に日本人好みに洗練され、柱は細く、天井を低く、床を張り、縁側を造るなどが特徴です。
平等院鳳凰堂、室生寺五重塔、当麻寺本堂、金剛峯寺不動堂、延暦寺根本中堂などが和様建築の代表的寺院建築です。
寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物と、対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物、それらをつなぐ渡殿、それらによって囲まれた庭園を有する平安時代の貴族住宅の様式です。
現存する建築遺構はありませんが、平安時代後期の様式を用いて建てられた京都御所や、室町時代の御所の建物を移築した京都の大覚寺(嵯峨御所)、仁和寺にその面影が見られます。
大陸との交易が活発になり、再び中国から建築様式が入ってきます。
東大寺の再建に用いられた大仏様(天竺様)と呼ばれる、合理的な構造・豪放な意匠が先ずあげられます。
また大陸から禅宗様と呼ばれる、禅宗寺院の建築様式が伝わり、禅宗寺院の仏堂に多く用いられます。代表的なものは国宝指定の円覚寺舎利殿、正福時地蔵堂があげられます。
この時代の和様の建築物として、京都三十三間堂や滋賀県の石山寺多宝塔が有名です。
住居としては、武家の間で寝殿造を簡素化した住宅、武家造が使われるようになります。
平安時代末期以後、焼失した東大寺大仏殿の再建を指揮した重源によって採用された、中国の建築様式です。
その建築様式は合理的な構造、豪放な意匠で大仏殿にはふさわしいものでありましたが、日本人の好む穏やかな空間とは相容れない面があり、重源が没すると大仏様を用いる事が少なくなっていきました。
東大寺南大門、開山堂、法華堂礼堂や、浄土寺浄土堂、醍醐寺経蔵などの寺院建築が代表作です。
平安時代後期以後、中国(宋)との交易が活発になったことで、禅僧の往来により中国の寺院建築様式が伝えられました。
全体に木割(きわり)が細く、小さな斗(ます)や肘木( ひじき)を整然と積み上げ、一重ながら周囲に幅の狭い裳階(もこし)をめぐらして、全体 的に背丈の高い外観を作り出していることが特徴です。
円覚寺舎利殿、正福寺地蔵堂、功山寺仏殿、善福院釈迦堂などの寺院建築が代表作です。
木材の加工技術が進歩して、江戸時代へと受け継がれる、武士の住居としての書院造が現れます。また禅宗の影響を受けて、規模の大きな庭園建築が造られました。
この時代を代表する建築物として、足利義満の別荘として建てられた鹿苑寺舎利殿(金閣寺)、慈照寺観音堂(銀閣寺)が有名です。
室町時代中期以降に成立した住宅の様式です。その後現在までの和風住宅は、広い意味で書院造の強い影響を受けています。
特徴として床の間や違い棚、附書院という座敷飾りを備えたものであることや、襖や障子などの間仕切りの発達により屋内が用途に合わせて細分化されていること、畳が敷き詰められていることなどがあります。
代表的な建築として、慈照寺(銀閣寺)の東求堂が現存する最古のものとされています。ほか西本願寺白書院や二条城二の丸書院が挙げられます。
近世城郭建築が確立し、室町時代からの書院造、茶室の完成を迎える時代です。
近代城郭最初の天守といわれる安土城はじめ、安土桃山時代末期には姫路城、大阪城などで近世城郭建築の頂点を極めています。そして身分の序列を著し権力者の威厳を示すため、書院造が完成し、これらの城郭建築内部にも取り入れられています。
また室町時代に始まった茶の湯は、千利休によって大成され、茶室というジャンルが生まれ、利休死後も古田織部、小堀遠州といった大名茶人によって多様な展開を見せています。
天守を備えた「城」が安土桃山時代に絶頂期を迎えます。
石垣、天守や櫓などの建築様式は、室町末期以降、特に松永久秀の多聞山城や信貴山城や、織田信長の安土城を築城した時代に発生しました。
その後、豊臣秀吉により大坂城や伏見城などが築かれ、天守に石垣、枡形や馬出しを備えた城門といった、現在の一般的イメージの「城」が完成し、日本の城郭建築は栄華を極めました。
松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城などが現存しています。
茶を出してもてなすために造られる、最小の空間の中に豊かな広がりを持つ日本独特の建築物です。日本庭園の中に造り、露地が設けられ、茶室に入るまでの空間も大きな意味を持っています。
豊臣秀吉の時代、千利休により、侘び茶の精神を突き詰めた、独自の小間の茶室の様式が完成します。
利休の死後は、古田織部、小堀遠州、織田有楽斎、金森宗和ら大名茶人により、多様な空間を生み出しています。
伝千利休作・国宝-待庵(京都府)、旧・建仁寺正伝院茶室織田有楽斎好み・国宝-如庵(愛知県)、
伝小堀遠州好・国宝-密庵(京都市)などがこの時代の代表的な茶室です。
茶室を住宅に取り入れた数寄屋造りや、都市の娯楽施設である劇場建築・遊廓の建築など、庶民文化を反映し、世俗化した建築が多数見られます。
庶民信仰を背景に、善光寺・浅草寺など大多数の信者を収容する大規模な本堂を持つ寺院建築が現れ、民家も一部は書院造の要素も取り入れ発展しました。
数寄屋造の桂離宮新書院や修学院離宮、壮麗な霊廟建築の日光東照宮、大規模寺院建築の東大寺二月堂、書院造や日本庭園の傑作を有する桂離宮などがあります。
茶室(数寄屋)の持つ、好み(数寄)や趣向に合わせて自由に建築する建築様式のひとつです。
江戸時代以降は茶室風を取り入れた住宅が発展し、現代では、料亭や住宅でも数奇屋建築にならったものが造られています。
格式・様式が、極力、取り入れないようにされており、床の間は小規模になり、長押がないことが多く、シンプルながらも洗練された意匠となっています。
桂離宮書院、修学院離宮、伏見稲荷大社の御茶屋などが代表的建築となっています。
明治初期、日本政府は近代化に必要な都市を築くため、西洋建築の技術を得るためにジョサイア・コンドルなどのお雇い外国人を招聘します。
コンドルなどが教鞭をとる工部大学校造家学科(後の東京帝大建築学科)から「日本建築界の父」と呼ばれる建築家、辰野金吾が卒業し、日本における西洋建築を多数設計しました。
その後、ドイツで学び官庁建築に強い影響力をもった妻木頼黄・渡辺譲・河合浩蔵の建築家により、日本において近代化=西洋化を目指していた建築は絶頂期を迎えます。
1920年に日本初の建築デザイン運動として、東京帝国大学建築学科出身者による分離派建築会が創設されています。
昭和初期から戦前期は、渡辺仁設計の東京国立博物館本館などの、モダニズム建築に対抗して日本で発生した建築様式、帝冠様式の建築があらわれています。
1920年、東京帝国大学(現東京大学)の卒業生らが始めた日本初の近代建築運動です。
石本喜久治、滝沢真弓、堀口捨己、森田慶一、山田守、矢田茂の6人により設立され、建築の芸術性を主張し、展覧会開催や出版物を刊行しました。
昭和初期のナショナリズムを背景として日本で流行した、鉄筋コンクリート造の現代建築に和風の瓦屋根を載せた和洋折衷の建築様式です。
渡辺仁による現・東京国立博物館、愛知県庁舎、平林金吾による名古屋市役所本庁舎などが代表的建築です。
第二次世界大戦後、戦後復興と高度経済成長の中で、鉄筋コンクリートの使用が一般的になり、各地にモダニズムの公共施設が建設されました。
耐震構造技術も進歩し、超高層建築が建てられるようになり、丹下健三、槇文彦、安藤忠雄など、世界的に活躍する建築家が多数登場しています。
明治時代末から大正時代に、西洋から鉄筋コンクリート造という新しい技術が伝えられ、遠藤於莵、本野精吾らによって、装飾の少ないモダニズム建築の先駆的な作品が造られます。
しかし当時の建築に対する芸術観は、装飾のない建築は主流とはなりませんでした。
第二次世界大戦後は、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築と、柱と梁で構成される日本の伝統的建築とを対比し、後者がモダニズムの理念と適合しているという、日本の数寄屋造とモダニズムの近親性が論じられました。
日本においては、モダニズム建築の理念が第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及し、過去の歴史様式をまとった建築は否定されるようになります。この背景には、戦争の激化とともに物資が乏しくなったため、また戦後になると戦災から一刻も早く立ち直るため、とにかく時間をかけず廉価に建設することが社会的な要請として最優先され、職人が腕を振るって装飾を付けるようなことは無意味であり無駄だと考えられたこと、また海外及び日本の建築雑誌に紹介されるのはモダニズム建築ばかりであったことなどが理由として挙げられます。
前川國男、丹下健三、村野藤吾などが、戦後のモダニズムの代表的建築家です。
1960年代のアメリカで登場した、最小限)主義から誕生し、必要最小限を目指す手法・創作理論です。
無駄を排し、表現における贅肉をそぎ落とし、極限的な美を追求するミニマリズム建築は1990年代後半からムーブメントが始まっていますが、その様式は多様でミニマリストひとりひとりの違った解釈が存在しています。
安藤忠雄、妹島和世+西沢立衛(SANAA)などが、ミニマリズム建築を設計しています。
1980年代、機能的・合理性を追求し過ぎ、都市や建築が味気無くなってしまったモダニズム建築において、その批判から、かつては否定された装飾や象徴性の回復などが唱えられた建築様式です。
1990年代のミニマリズムの台頭により、また過剰性・奇異性、景気の後退による建設費の削減により、できるだけ素材の質を活かした簡素なデザインが増えることとなりました。
磯崎新、竹山実、隈研吾、菊竹清訓、原広司などの建築家が、ポストモダン的な建築を設計しています。
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建築の専門書の買取について
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